「怒ってよろしい」ー”感情”と””想念の狭間で
先日のレイキマスター勉強会で、
「ネガティブ・エネルギー」という言葉がまた話題になった。
実のところ、このネガティブ・エネルギーってなに?ということは、この勉強会で度々話題になるのです。
ネガティブ・エネルギーとは、どうも「怒り」を意味しているように受け取れる。
「怒り」とは、ネガティブ、すなわち否定すべき”感情”なのだろうか。厳密にいうと”否定的な感情”ということかもしれませんが、そもそも、感情そのものに、肯定否定または良い悪いの判断のラベルをつけることは妥当なのかな?というか可能なのかな? と私は、思うわけです。多くの方々のカラダを通した感情の表出、そして自分自身の感情の表出を長年ボディワーカーとして観察してきて、そのように考えるのですよね。
身体の奥底から湧き上がってくるように感じられる”感情”を、それは、怒りだけとは限らず、喜怒哀楽、つまりは、感情全てを、私たちの理性は、否定も含め、自在にコントロールできるものなのかな?、とも思います。おそらく、多くの人々は、自在にコントロールできない自身の感情に翻弄されて、自分をカラダごと否定するパターンに飲みこまれがちなのかなとも思います。
私たちの人生において、喜怒哀楽を十全に受け取ることは、人生の醍醐味であり、幸福感の前提となるものではないでしょうか。そして、喜怒哀楽を十分に味わい尽くしてこその、安心立命なのではないのかな、と思うのです。
体験的結論的にいうと、「感情はコントロールはできない」が私の答えで、感情は、例えそれが、自分にとって好ましく思えるものであれ(ポジティブ)、苦しく辛く思えるものであれ(ネガティブ)、受け取る以外に方法はないな、というのが、ボディワーカーとして人生の半分以上を生きてきた私の、到達地点でもあります。
感情は、カラダの感覚として受け取ることのできるもので、生命エネルギーの躍動が肉体レベルで顕現したもの、と捉えます。「感覚」に非常に近い。とすれば、それに対して、いかなる判断も評価も意味はないのです。感情はカラダで感じるためのもの。これは、極めてボディワーカー的な解釈というか、こういう考え方を、ボディワークと言って良いと思います。ソマティックと言い換えてもいい。
エサレン・アプローチの要でもあるノー・ジャッジメント、すなわち「判断・評価をしない」ということは、このような考え方によって、ゆったりセラピーの重要な方針となっているのです。
ゆったりセラピーでは、「判断・評価をしない」ということを学んでいくわけです。ですが、一般的に言って、それってどういうこと?って感じですよね。どういう意味があるの?と思うでしょう。
どのような判断や評価をするのか、
そして、されるのか、は、私たちがこれまで生きてきた中で
そしてこれからの人生で、重要なことのはずではないですか。
それはそうなんです。
なので、私たちは、どのように判断・評価をするのか、そしてされるのか
ということを、微に入り細に入り、長く学んできました。
一般的に、あらゆる教育が、どのように判断・評価をするのか、
そしてされるのかということが中心になっていると言っても過言ではありません。
その結果、それが隅々まで過度に行き渡り、何が起こっているでしょう。
ゆったりできなくなっているのです。
本来は一つであった心と身体はバラバラになり、
不安定になり、バランスは容易に失われがちです。
常に外側からの情報により、判断・評価し続けなければいけないということは、
自身のカラダを蔑ろにしていくことでもあるのです。
社会もこうした私たちの心身の状態を映し出すように頭でっかちになり、
喜怒哀楽を抑圧し、カラダを軽んじ、その結果、
寛容さを失い、安定感や、安心感を保ちづらくなっています。
カラダに意識を向けていくということは、
カラダの感覚に気づいていく、ということなのですが、
往々にして、「判断・評価する」という思考の働きが、
このカラダの感覚に気づく、ということを邪魔するのです。・
「判断・評価する」ということは
頭でそのように考える、ということであり
想念です。
「こうあるべきだ」
「これはこういうものだ」
「 このようにしなくてはならない」
といった種類の思考であり、これまで学んできたこと、であり、
ほとんどが外側から取り込んだ知識や情報です。
カラダの感覚に気づいていく、ということは
こうした判断や評価を超えたところにある何がしかに
つながる、ということで、
そのリソースは、内側からやってきます。つまり、カラダの内側からもたらされます。それが、感覚であり、時には、感情となって内側から私たちを揺さぶることもあります。
感覚や感情に対してどのように向き合っていくのか、は、
私たちの人生の学びの大切な要であるにもかかわらず、
現在の教育システムの中では、学ぶ機会がとても少ないか、
あるいは全く学ばないか、なのではないでしょうか。
ゆったりセラピーは、そこを補っていくものです。
カラダに意識を向けていくということは、
カラダの感覚に気づいていく、ということであり、
カラダの感覚に気づくと、自身が抱いている感情にも気づきやすくなり
段々に感情をを感情として受け入れることができるようになります。
つまり、これが”感じる”ということなのです。
そうすると、雲のように沸き起こり際限なく広がる”想念”は、自然に鎮まっていきます。
そして、感情に支配され増幅した想念によって、闇雲に行動することから脱却するのです。
想念を鎮めるという一連のプロセスは、さまざまなセラピーやヒーリング手法、あるいはマインドフルネスや瞑想、自己啓発法などで教えられており、私たちはいろいろな手法を試したり、練習したり、学ぶ機会に恵まれています。その中でも最もパフフルでありながら自然でかつ効果が大きく確実なのは、触れる・触れられるという行為にある、と私は実感しています。
ゆったりセラピーは、触れることを通して感じることをサポートし
心身をバランスへと導きます。そうすると、想念は自ずと鎮まるのです。
さまざまに思い悩んで、頭の中が、いっぱいになってしまっているとするなら、
それらが暗雲が晴れるかのように去っていく。
ゆったりセラピーの”心地よい”と、リラックスの体験の源はそこです。
そして、同時にカラダもスッキリしている、ということが起こるのです。
私は、誰もがこのカラダを通した学びが必要だよねって思ってます。
ゆったりセラピストは施術を通してそこに関わっておるのです。
だから、癒しています、って感じではないし、ましてや治しますってものではない・・・強いて言えば、心身のバランスへと一緒に向かうパートナーなのだ。
なんてことを日頃考えています。
ネガティブ・エネルギーという言い方を聞くと
誰がいったいどういう価値観で持って
そのエネルギーを「ネガティブ」と判断したのであろうか。
と思ってしまう。
エネルギーがネガティブであるってどういうことかなぁ?と思うわけです。日々、カラダに触れているとさまざまなエネルギーの現れに気づくのです。例えば、厚みがある感じ、暖かい感じ、ヒリヒリした感じ、ビリビリした感じ、冷たい感じ、柔らかい感じ、たっぷりある感じ、薄い感じ、詰まった感じ、固まっている感じ 等々。色を感覚する人もいます。
また、エネルギーは、多すぎたり、少なすぎたり、滞っていたり、澱んでいたりすると、何らかの心身の不調を引き起こすことも経験的に理解できます。しかし、ネガティブ=否定的となるとそれは感覚ではなく、受け入れない、というある種の判断や評価の意味合いを表し、感覚を表す言葉とは別の種類の用語で、エネルギーを形容するにはどうしても違和感を持ってしまう。
ゆったりセラピーを学び実践している、レイキマスターたちも何か違和感をもつらしいのです。
そして、そのネガティブ・エネルギーとはどうも”怒り”を表しているらしい、となると
私は、ますます、むむーとなってしまうのでした。
というのは、私にとって怒りの「感情」はとても大切なもので
怒りと思しき「感情」を感じることは私の生きるエネルギーにつながるのです。
生きる根源とつながる感情だなって思っています。
怒りを感じるとき、私は私自身の尊厳を重く深く感じていると言っていい。
これは体験的にそうなのです。
怒りの感情は、どうも私のハラワタ近辺から泉が湧くようにムラムラと湧き出て
私のカラダを熱く燃えるようにし、生きるエネルギーそのものを与えてくれるように
感じます。だから、私は私の怒りに気づくと、 そのエネルギーを感じることに
躊躇しません。つまり、怒りをちゃんと感じてみようとするのです。
ハラワタが煮えくりかえるという表現がありますが、
まさにそうだよねって納得します。そしてハラワタが煮えくりかえるままにしておく。
と、次第に何か真っ当な生きるエネルギーというか元気が、じわりと湧いてくるのです。
ようし、やったるで。ここで引くわけにはいかない、みたいな。
負けてたまるか。みたいな。
だからと言って、例えば、ですが、腹いせに夫に殴りかかったり、罵声を浴びせたりする必要は全くないことを私は十分に知っていて、静かに内側の生きるエネルギーの高まりに胸を高鳴らせ、私の使命にさらに向かっていく勇気を得る感じがするんですよね。
怒りは、私にとって一から十まで内側の大切なプロセスです。
というわけで、
私は怒りの感情が湧いてきていると気づくと
そのエネルギーを感じる時間を十分に取るように心がけ、そしてその後
異次元的に元気になっているように思います。
そう、真っ当に生きていくには、”怒り”は大切なのよ。そして、尊厳ということを具体的に感じるチャンスは、怒りの感情がやってきた時なのだ。
その怒りのエネルギーを、”ネガティブ”なものと判断して、そして感じないようにコントロールしたら、どうなるかってことですよね。
心を病むんじゃないでしょうか。
また、カラダもあちこち歪んだり、凝ったりするんじゃないでしょうか。
はたまた、生きる意欲は激減するのではないでしょうか。
そもそも感情って、カラダの内側から湧き起こり、コントロールできないもので、つまり感じるしかないものだぁ、お手上げだぁと、コントロールを手放すことで、初めて向き合うことができ、そして、受け取る、というか。
感情は、宇宙からのギフトなのだよ。それが怒りであれ、喜びであれ。
感情とは、喜び、悲しみ、笑い、言葉にできないモヤモヤ、ジワジワ、ジリジリ、ハラワタ煮えくりかえる怒りも含めて、喜怒哀楽であり、人間である、ということであり、カラダの内側から生じるエネルギーの動きであり、感じるしかないもの、受けとるしかないもの、宇宙からのギフト説の鎌田であります。
というわけで
僭越ながら、
「怒るな」ではなく、「怒ってよろしい」なのであります。
しかしながら、
ここにワナが一つあるのです。感情を想念に置き換えて、その想念を増幅させていくこともできるのが人間なのですね。想念は際限なく増幅し持続しますが、感情は、カラダの内側で起こり、カラダに限定されてそして収束していく。
なので、「正しく怒れ」なのかもしれません。
もしくは、「怒りの想念を絶て」なのか。
怒りの感情と、怒りの想念は別のもの、なのではないでしょうか。


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