「お産が重い」のはなぜか? ニューヨークの空に消えたコミュニティの記憶

 「日本人はどうしてこうお産が重いんだろうねぇ」
とその看護師は言った。

「え、そうなの? 」それを聞いた時私は、西洋人と東洋人では、骨盤が腰椎に接続する角度が違う、という知識を持っていたので、そのせいなのかな、と思った。

でも、他のアジア人、すなわち同じ東洋人である韓国人や、華僑の人たちは、出産直後だというのに、威勢が良かった。親戚のおばさんが持ってきたというポットに入ったチキンスープをお隣の産婦さんに進めたり、その際には、いかにチキンスープが産後の回復に良いのかを病室中に講釈することはもちろんだ。それから、ベッドサイドにある電話で家族に電話をかけたりして、常時かまびすしい。

もちろん、他の黒人やヒスパニック系の産婦さんもいたけれど、彼女たちも元気な様子で、すでに病室内をうろうろしていた。見ると、私の担当の日本人の産婦さんだけが、憔悴した様子でベッドに力無く横たわっている。ニューヨークの中心部マンハッタンのダウンタウン、産科病棟での光景だった。



おお、ここで衝撃的なことを思い出す。私の記憶の中では、ここに白人系の人がいなかった感じがするんだよね。

人種のルツボと言われたニューヨークらしく、ありとあらゆる人種の人をこの病棟でも見かけることができた。

看護師さんはヒスパニック系の人だったような気がする。ま、記憶っていうのは、曖昧なものなので、そこにいた白人系の産婦さんが単に私の記憶に残っていない、というだけなのかもしれないけれど。

でも、当時のニューヨークでのことを思い出すと、人種差別的なことって私自身、結構体験してるから、白人系と、それ以外で病室が分けられていたということはありうるかもしれないし、たまたま白人の産婦さんがその時その場にいなかっただけかもしれないけれど。

さて、なぜ私が産科病棟の病室にいたか、説明しなくちゃいけないね。

カリフォルニアのエサレン研究所でマッサージセラピストとしてトレーニングを受けた私は、もともと住んでいたニューヨークに戻ると、まずは、認定を取るためのモデルセッションに取り組んだ。

その傍ら、ニューヨーク市内の病院でのボランティアスタッフに応募したんだ。簡単な数日のトレーニングを終了すると病院内でのボランティアとして採用された。私は、日本人患者と日本語で話す、という最初のミッションを与えられた。

ただベットサイドに座ってたわいもない話をすることが、患者の回復にとって大切だということを、移民国家である米国の病院は分かっていたんだ。

私は、力無く横たわる彼女のベッドサイドに座り、そっと彼女の手に触れた。彼女は彼女の物語を語りだす。彼女はバレエダンサーだった。彼女は恋に落ち、その後妊娠した。そして出産を決意する。彼女の鍛え上げられた肉体は、恥骨結合を生まれてくる赤ちゃんのために緩めることを拒否した。難産となった。そして、今、彼女は力尽きてベッドに横たわっているのだった。赤ちゃんは無事に生まれたらしかった。よかった・・・

彼女がどんな家族のもとに赤ちゃんと一緒に戻ったのかは分からない。家族がいたのかどうかすら分からないけれど。それを知るのは私の任務ではなかった。聞いたけど、忘れてしまっているだけかもしれないのだけれど。いずれ、私は、ただ彼女が語りたいことだけを聞いた。
 


当時のニューヨーク市の病院出産では、出産のために入院してそして4日目には退院しなければならなかった。それだと、陣痛が始まって、入院して、出産して、翌日か、その次の日には退院だよね。

(今の日本の病院だと一週間くらいは入院しているのかな?)

私を案内してくれた冒頭の看護師は、日本人といえば、まずほとんど例外なくお産が重いのよね、と話してくれた。確かに私が訪れた国際色豊かな病室では、出産直後なはずなのに皆元気で、かまびすしい(という形容がぴったりなのよ)。

騒がしいでもない、そうそう、かまびすしい。それはきっと、出産を終えた安堵や、誇らしさ、産婦さん本人だけではなくて、何か親族一同の賑々しさ、雑多なエネルギー、お祭り気分のような、そういった気配が病室にも滑り込んでいるから。たまに身も世もなくぐったりとベッドに横たわっている人は誰かと覗き込むと、例外なく日本人なのだ。

コレハドウシタコトダロウ。



私はその後、この病院で出産する日本人妊婦さんのために日本語でラマーズ法のクラスを開催しているナンシーさんという助産婦さんに出会った。

ナンシーさんは、韓国人、というか、韓国籍であった方。とはいえ、おそらく韓国語より、そして英語より、日本語が一番達者であると思われた。ワイルドな英語で丁々発止、アメリカ人と渡り合う姿は、私を元気にしてくれた。さまざまな事情で日本を出て韓国にも住んだが、最終的にアメリカに移住した。当時すでに60を超えていたように思う。

その彼女がニューヨークで達者な日本語を生かして、日本人のためにいろいろ心を配っていた。彼女のもとで、夫婦でラマーズ法を学び、 病院で出産する、と。そこまでは良いのだけど、家に戻ってからのケアが行き届かない。彼女は産後のケアのシステムを、日本人のために立ち上げたいと考えていた。また、そのための日本人ヘルパーを探していた。

私が最初に手を挙げたのである。

私の任務は、産婦さんのお宅に伺い、会陰切開のキズのケアである座浴のお世話をすることと、それから簡単な食事を作ってあげること、買い物にも行ったりしたのかなぁ・・そこはよく覚えていないのだ。そして、エサレンのトレーニングを受け認定をとった私には、そこでマッサージのケアをすることも許された。それは己れのビジネスとして己れで交渉し、己れで対価を得よ、ということだった。アメリカ的である。

そもそもナンシーさんが、日本人のために産後ケアプロジェクトを立ち上げたいと考えたのには、訳がある。日本人でニューヨークで出産する人のほとんどが、商社か何かの駐在員の妻としてニューヨークに住んでいて、親族と一緒には来ていない。

他の国の人たちは、親族一同で移民しているケースがほとんど。アジアンであれ、ヒスパニックであれ。だから、ママがいてパパがいて、じいちゃんばあちゃん、果てはなんだかよく分からないおばちゃんや兄ちゃん、姉ちゃんまで、なんやかんやと世話を焼いてくれるのだ。というか、世話を焼いてくるのだ。そう、かまびすしいのである。うっとうしいけど、時にありがたい。これがコミュニティというものだ。

日本では、出産時、特に初産の場合は、実家に戻り母親に面倒を見てもらうケースが多いかな。もしそうでなければ、母親に来てもらう場合もあるよね。ニューヨーク在住で妊娠をしたとして、どうするかというと、慎重な判断としては、日本に帰って産もうと考えるかもしれない。でも、母親に来てもらう、は選択し難い。なぜなら、来てもらってもお母さんは、外出もままならず、言葉も通じず、という事態に陥る。

そこで、米国のメディケアとリベラルな思想に身を投じて、夫とラマーズ法を学んで挑もうということになる。それがナンシーさんのクライアントである日本人の姿なのだ。しかし、産後に多くの産婦さんがつまづいてしまう。


 私は、いつものようにミッドタウンの高層アパートメントの一室を訪ね、座浴の介助が終わるとその日は、少しマッサージをしてあげて話を聞いた。彼女は抜け毛に悩んでいた。夫は仕事が厳しくて朝早く出て遅くにしか帰ってこない。彼女は、生まれたばかりの赤ちゃんと高層ビルの一室でほとんどの時間を過ごす。柔らかい日差しや、風のそよぎを感じることさえない。私の胸は痛んだ。

ナンシーさんの日本人産後ケアプロジェクトが、その後どのように発展したか私は知らない。なぜなら、私は私の日本である東北の地に戻ってきてしまったからだ。今思うと私のこの決断には、エサレン研究所での体験だけでなく、このニューヨークでの体験が大きく影響していたのかもしれない。

自分が生まれた育ったあの土の上にもう一度立ってみたくなったのだ。

自由を求めて海を渡り、最新のメディケアを信じ、自律した一組の男女として挑むお産。それは一見、美しく自立した「個」の姿に見える。

だけども実際は、親族たちの「かまびすしい」お節介の中に生き、お産をらくらく乗り越える他国の女性たちと、ひとり難産に憔悴する日本の女性、高層ビルの一室で赤ちゃんと二人きり、抜け毛に悩む日本の女性。あまりにも残酷な対比だ。

 人は、真っ白い何も描かれていないキャンパスのようなところにポコっと生まれるわけではないと私は思う。煩わしく、重たく、時にうっとうしい。そんな「しがらみ」という名の土壌が、実は「人権」がなりたつ基盤ではないか。そしてさまざまな「しがらみ」を守る試みが、人が人であるために必要なのではないか。

ニューヨークの洗練された自由が奪う「人権」というものがあるような気がする。

「人権」と言われると何か難しくて、ハハーと平伏し何も言えなくなる感じがある。だけど、人権を盾にとって振るわれる暴力がある。黙らずになんとか声を上げなくてはならないんじゃないのかな。

そして、歴史に目を向けると、人権思想を育てた西欧諸国がなんの容赦もない搾取を行った植民地支配がある。人権の「人」の中には、長いこと、日本人も他のアジア人もアフリカ人も南北米大陸およびオーストラリアの先住民も入っていなかった、というダブルスタンダード。日本人はそれを忘れて西洋と付き合ってはいけない、と思う。

 「人権」なんて難しいことを言わないで、全ての命が大切なんだよ、というシンプルな呟きが一番ピッタリくる。その呟きは、きっと人も自然も搾取せず持続可能な循環型の経済と社会を築く。

泥まみれになって働く父母がいて祖父母がいて、煤けた匂いのする、不自由で温かくて冷たい東北の大地。 そこに「人」として生きるための、日本という最強の軸がまだ残っているのではないか。そんな直感に抗うことができなくて、私は5年間の米国暮らしを打ち切ったのだった。

 

 

 

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<鎌田麻莉プロフィール>
エサレン®ボディワーク(全身オイルトリートメント)の日本の草分け的存在。

1987年単身米国に渡り、それから5年、ニューヨーク市に住む。

その間、気功、太極拳、ヨガ、チベット仏教に出会い、西洋文化の中で東洋の哲学と身体技法を学ぶこととなった。また、台湾人鍼医の日本人顧客向け通訳としてアシスタントを務め、同時に経絡・鍼灸・漢方処方を学ぶ。

その後、ナチュラル・ヒーリングを志して、1990年1月にカリフォルニア州エサレン研究所の集中トレーニングを終了、同年認定。ボディワーカーとしてのキャリアをスタートさせた。

1992年に帰国し、日本でのエサレンボディワークの実践をスタート。 
1999年-2007年、日本で初めてエサレン®ボディワーク資格認定コースを主宰。「エサレン」の名を日本に広めた。2008年より、心で触れるボディワークスクールを開校、自身で教え始める。

震災をきっかけとして2011年より、エサレンのアプローチを着衣のままで受けることのできる「ゆったり整体」の研究開発に着手、それまでの施術者としての経験を「ゆったりセラピー」としてまとめあげた。

2013年、社)ゆったりセラピー協会を設立し、セラピストの育成とともに認定講師の養成に注力し、エサレンメソッドを日本の風土と文化に見合う形での普及に取り組む。

和のカラダを提唱する。 現在、岩手県花巻市在住、温泉サロン・リラクセーション水心及び、町中サロン・ゆったりサロン絆で、ゆったり®️セラピスト続行中。スクールも花巻にある。
 

ゆったりセラピスト・鎌田麻莉のHP
カラダ・最後の砦を守り抜くために
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